今回は一年前の記録となってしまいますが、昨年の近江八幡の左義長祭に出かけたときの写真を掲載しましょう。
 
 近江八幡市は琵琶湖の東岸、京都からバイクで向かいます。琵琶湖大橋を渡って、守山市の菜の花がまだ綺麗に咲いていたので寄り道しました。
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「春を描く」
 この花は寒咲花菜といい、冬の寒い時期から咲き始める菜の花の一種です。前々回、2月20日に撮影した写真を載せましたが(リンク)、ほぼ一ヵ月後のこの日もまだ衰えを見せず咲き誇っていました。背景の比良山頂上付近にわずかに残った雪の量が、時の経過と春の訪れを物語っています。
 春色あふれた風景を腰を落ち着けて写生していました。写真を撮れば記録は残りますが、絵を描けばより深く記憶に残ることでしょう。

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豊臣秀次
 近江八幡市に到着。じっくり訪れるのは初めてです。まずは全体が見渡せる高台の公園に登ってみました。そこには写真の像が町を見下ろしていました。豊臣秀次です。
 近江八幡はこの豊臣秀次により開かれた城下町です。近江商人の発祥地として知られたこの町は、秀次により掘られた八幡掘や昔の町並みが多く残り、伝統的建造物群保存地区に指定されています。琵琶湖の水を引き込んだ八幡掘は城や町の防御に、そして琵琶湖を通じた水運に大きな役割を果たしました。
 豊臣秀次は豊臣秀吉の甥(秀吉の姉、智の子供)として生まれたばかりに、秀吉に運命を翻弄させられた人物です。一時は秀吉の後継として関白にまで上り詰めたものの謀反の疑いをかけられ、秀吉により切腹させられます。しかしその真相はいまだ謎に包まれているようです。人物像は凡庸無能、悪行蛮行などあまり芳しくないものもあるようですが、少なくともここ近江八幡の人たちにとっては大恩人、すばらしい領主として慕われています。もしも殺されず秀吉のあとを継いでいたなら、その後の歴史は大きく違っていたことでしょう。

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「黄金のハト」
 公園を後に左義長まつりが行われる日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)にやってきました。八幡様といえばハトが使い。写真は境内にあった金色のハト像です。
 左義長まつりはここ日牟禮八幡宮の例祭で、昨年は3月17-18日に行われました。一般に左義長(どんど焼きとも)というと小正月、つまり旧暦1月15日に行われる、正月飾りなど燃やす火祭りという認識でしたが、ここ近江八幡の左義長まつりは行われる日程、内容とも通常の左義長とは一味違った大規模なものです。もとは織田信長の安土城下で行われていたといいます。信長亡き後、秀次が近江八幡を開いたとき、安土城下の町衆を移住させました。その町衆が近江八幡の古くからの氏神である日牟禮八幡宮に左義長を奉納するようになったといいます。

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 左義長まつりの一番の見ものが、各奉納町で作られたこの左義長と呼ばれる作り物です。担ぎ棒に結わえられた松明となる三角錐の土台部分。その上には竹の柱に細長く切った赤紙を束ねたものがたなびきます。これを十二月というようですがその由来は何なのでしょうか?この赤い短冊は左義長まつりのシンボルのような感じで、街中の各家の塀などあちこちに飾られています。左義長の重さは約1トンとのこと。担ぎ手は踊り子と呼ばれます。
 各町の左義長が日牟禮八幡宮に参集してきます。背景の建物は白雲館という明治初期に立てられた洋風校舎です。

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 境内に勢ぞろいした各町の左義長。全部で14の町内から左義長が奉納されています。観客は各左義長の出来具合を見て周ります。この日はその出来をダシコンクールで競います。

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 各左義長には必ずその年の干支の作り物が正面に置かれます。昨年は戌年。これを「だし」と言います。だしは海産物や穀物等の食物で作られます。素材の色、形を活かしたその造形、精巧さには驚きます。こちらのは闘犬の横綱でしょうか?ちなみにこのだしがダシコンクールで優勝したようです。
 ほかのだしも見て周りましょうか。

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 周りの花弁は豆か何かを敷き詰めてあるようです。

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 スマートで凛々しい表情です。

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 それぞれのだしには主題があるようです。だしごとに創意工夫を凝らした装飾がされています。

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 赤紙が良く晴れた境内に鮮やかです。

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 まつりで目に付くのがこのような仮装(女装)した左義長の担ぎ手(踊り子)の姿です。昔、信長もこのまつりを好み、仮装して繰り出したということに因んでいるようです。

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 一升瓶をラッパ飲み。



 一通り左義長を見て周り、あまり動きがないようなので近江八幡の町内を散策することにしました。

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 こちらが八幡掘。土蔵の白壁とよくマッチした風景です。

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 戦後しばらく水運も使われなくなり、堀は掃除もされずヘドロがたまり悪臭を放つ、というような時期もあったようです。埋め立てる計画もあったようですが、復活させたいという市民の力により見事に昔の流れが蘇りました。今ではこの風景を求めて多くの人が近江八幡を訪れることとなりました。京都伏見あたりも似たような風景が残っていますが、車などなかった時代、水上輸送は想像以上に重要だったでしょう。そして日本各地にこうした風景が普通に見られたことでしょう。

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「旧八幡郵便局」
 近江八幡にゆかりのある人物として著名なのが、建築家として多くの西洋建築を日本に残したウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)です。アメリカに生まれたヴォーリズは1905年(明治38年)、25歳の時に滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として来日します。その後、建築設計事務所を設立して近江八幡を拠点に活躍しました。日本人と結婚、日本に帰化して日本人として生涯を終えます。元はキリスト教の伝道師として活動を行っていたり、メンターム(メンソレータム)でお馴染みの近江兄弟社の設立人の一人であったりもしますが、近年は建築家としての評価が高まっています。日本全国になんと1600件もの建築を残しているとのことで、ヴォーリズ建築と知らずにいたなどの話もあるようです。このブログでも以前京都北白川にあるヴォーリズ建築、駒井邸について紹介しました(リンク)。
 お膝もとの近江八幡にも多数のヴォーリズ建築が残っていますが、上の写真の旧八幡郵便局もそのひとつ。壁には左義長まつりの赤紙がたなびいていました。

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 近江八幡の名誉市民第一号として顕彰されたヴォーリズの像。

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 街中を歩いているとごらんの古風な建築が目に入りました。近寄ってみると近江八幡市立八幡小学校とのこと。明治6年創立の古い小学校のようです。これもヴォーリズ建築かと思いきや、そうではなく、大正6年田中松三郎の設計で、しかも現在の建物はオリジナルの外観を活かして近年鉄筋コンクリートで立て替えられたもののようです。とても小学校とは思えない素敵な建物でした。

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 八幡堀の橋を渡る左義長。
 2時過ぎ、各左義長が日牟禮八幡宮から町内を練り歩きます。以下、町内を渡御する左義長の様子をご覧ください。

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 赤い衣装と赤紙が青い空に映えます。

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 まつり初日のこの日はおとなしく練り歩くだけです。翌2日目は左義長同士をぶつけあうこともあるようで、これをけんかと呼び見所のひつとか。

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 この日は天気もよく、雲ひとつない青空に左義長が映えます。

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 踊り子の衣装は原色があふれ、古い町並みとあいまって写真映えするお祭です。

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 カメラを向けるとポーズをとってくれました。

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 マンホールのデザインも凝っています。



 渡御は続いているようですが、適当に切り上げ近くの鶴翼山(かくよくざん、八幡山とも)に登ってみました。日牟禮八幡宮近くからロープウェーがありましたが、低い山なので歩いて登ります。標高は283m。

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 ロープウェー山頂駅から近江八幡市街を見下ろす。
 山頂部には秀次が築いた八幡山城が存在したのですが、現在は石垣などが残るだけです。本丸跡には瑞龍寺があります。この寺はもとは京都嵯峨にあったもので、秀次の母であり秀吉の姉、智が秀次とその子供の菩提を弔うために創建したものです。その後、京都西陣、そして昭和36年に秀次ゆかりのこの地に移転してきたとのことです。

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 ここは西の丸跡地。琵琶湖方面の展望が開けています。恋人の聖地として認定されていて、ごらんのモニュメントが。厚い歴史が埋もれたこの地に唐突で場違いな作り物と感じてしました。

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 西の丸跡から見る琵琶湖方面の眺望。
 琵琶湖の西岸は山が湖の間近に迫っていて平野はほとんどありませんが、手前、東岸は広く平野が広がっています。左端、遠くに見える三角錐が比叡山。右側のぎざぎざが比良山系となります。琵琶湖から手前に延びている水路が近江八幡に繋がる八幡堀です。

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 北の丸から見た東側の展望。
 琵琶湖の反対側ですが、こちらにも比較的大きな湖面が見えます。西の湖です。昔は琵琶湖の周辺には内湖と呼ばれる湖が多数存在しましたがその多くは干拓されました。西の湖は今も残る最大の内湖です。

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 山から下りてきました。渡御を終え全ての左義長が戻ってました。この日の行事も大方終わったようで、日も傾いてきたので帰路に着きました。
 まつりは翌日も続き、左義長同士のけんか、そして夜には左義長を燃やす、奉火が行われクライマックスを迎えるとのこと。そちらは見学できませんでしたが、機会があればまた訪れたいと思います。


(2018年3月17日)