前回紹介した狸谷不動から瓜生山へ至る道は瓜生山への最短ルートです。今回はこれ以外の道をざっと紹介しておきましょう。
この山域は標高も低くなだらかなわりに地形が複雑で、また古くから都の裏山といった事情もあり様々な道が交錯しています。最新の2万5千分1地形図にない道、逆に地図上に記載されていて実際には廃道となっているものもあり当てになりません。近年は鹿や猪などの獣が増えそうした獣道もあったりします。
おもなルートを赤線でトレースした地図を掲載しておきます。

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おもな上り口としては、狸谷不動からのもの(1)、北白川仕伏町バプテスト病院からのもの(2)、京都造形芸術大学からのもの(3)、詩仙堂の南にある波切不動からのもの(4)、詩仙堂の北にある円光寺からのもの(5)、曼殊院南からのもの(6)、滋賀へ抜ける山中越え沿いの不動温泉北白川天然ラジウム温泉)からのもの(7)などがあります。なかでもバプテスト病院からの道が一般的で道標にしたがっていけば迷うこともなく山頂までたどり着けるでしょう。というのも、この道が京都一周トレイルの一部となっているためです。京都一周トレイルは京都市の周囲、東山、北山、西山をめぐる山中のトレイル(一部は市街地を歩く)で番号を振ったルート標が要所要所に立てられていて安心して歩けます。専門の地図も販売されています。こうしたトレイルの整備は山になじみのない人が山に入り自然に親しむきっかけにもなりますが、一方で、そのルートだけに満足してしまい、未知の自然に分け入る好奇心や、読図力など培われないのではないでしょうか。
今回はこのバプテスト病院からのルートを紹介しておきましょう。
 
バプテスト病院の駐輪場から沢にそって上るとすぐに大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に出ます。
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案内板の文章を転載しておきます。 
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史跡
瓜生山(付近一帯)
 
東山36峰の一峰である。
山の名は播磨国より牛頭天皇(八坂神社祭神)が今の祇園主に移し祀られる貞観十八年(876年)の前にしばらく鎮座された天皇が木瓜を好まれた故事に依ると伝えられている。
室町時代勝軍地蔵が安置されて後、「勝軍地蔵山」と俗に言われ 聖護院門主大峰入り前必ず此の山にて護摩を修された。地蔵菩薩は後に現在地に移られた。延元元年一月十一日(1336年)新田義貞 瓜生山城を築き足利勢を敗った。天文永禄の乱足利十二代将軍義晴義輝父子 北白川城を山頂に築き 細川三好の党と戦い数年篭城の後 自ら天文十六年七月十九日(1547年)火を城に放ちて坂本へ奔り灰燼に帰した。白隠禅師が闘病中にこの山中に医術に長寿の仙人と言われた白幽子を訪い治療法を授けられた。北白川宮家が山の池の蓴菜を好まれたが東都へお移りになり池は埋められ荒廃した。
昭和四年地龍大明神の社が奉納後に大山祇神社の分社となり山霊の神々を合祀し毎年五月三日を山の祭日と定められた。
古歌
瓜生山もみじの中になく鹿の 声はふかくも聞こえけるかも

北白川大山祇神社
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神社脇の流れに沿って登っていくと程なく道は2手に分かれます。ここにはひときわ目を引く数本のメタセコイヤが生えていてよい目印となります。この木は大山祇神社付近にもなん本か植わっています。いったい誰が何のために植えたのでしょうか。
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2手に分かれたルートはどちらも京都一周トレイルですが、右の道は瓜生山をバイパスして比叡山方面に向かう道となるので瓜生山目的には左の道を登っていきます。少し登ると加工した花崗岩が散乱している場所にでます。前回、瓜生山の地形を紹介した文章にもあるように、この付近は古来、白川石という花崗岩の採石場(石切り場)があちこちにあり、切り出された石は山中である程度加工され運んだようです。
例によって北白川愛郷会による案内板の文章を引用しておきましょう。
 
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清沢口、中間作業石置き場
清沢の流れの源、この付近は北白川仕伏町と瓜生山の山頂とのほぼ中間点に当たります。このすぐ上方には白幽子が使った井戸の跡がありますが、この谷川のせせらぎは清沢という名のとおり、一年中枯れることなく、白っぽい花崗岩の岩盤の上を直接流れていて、白川の名の由来が偲ばれます。
いま、立ち止まって一休みしているこの場所で、あるときは瓜生山山頂の北白川上へ急ぐ武士が汗を絞ったかも知れませんし、あるときは勝軍地蔵へ参詣に行く善男善女がのどを潤したこともあったでしょう。白隠禅師も、富岡鉄斎も、この同じ道を歩いたはずですし、瓜生山をこよなく愛した小沢芦庵はそれこそ何度もここを往復して歌に詠みこんだものと思います。
白川石を切り出すのに使った猫車を牛に引かせたのもこの道筋なのですが、何かの理由でここまで運び出したまま放置された大きな石が苔むしてごろごろ横たわっています。山道の左右に転がっているこの石材は組立てたら大きな燈籠になるものだいうことに気がつきましたか。史跡の道で、自分も歴史の中の人物になったような空想も楽しいですが、自然の道で、いろんな木に下げてある札を見て、これは何の木、あれが何の木と覚えながら、幾種類の木が見分けられるか試してみるのもいいことです。
 
北白川愛郷会
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ちなみにこの付近の植生はほとんどが自然林で近年はカシ類、ソヨゴ、ツバキなどの常緑樹、クヌギ、ナラ類、サクラなどの落葉樹が中心で、新緑や紅葉など季節ごとに異なる多様性が目を楽しませてくれます。しかし、昔の絵図などを見ると東山はほとんど禿山のようで点々と松が生えているような状態に見えます。これは燃料として薪や柴を山から調達したことが大きいのでしょう。一方、そうした痩せた土地を好む松が生えていることでマツタケなども生育できたのです。近年そうしたマツタケの生える松林を復活させようという試みもあるようですが、人為的に維持しなければ成り立たない自然を、山に復活させることは無理があるのではないでしょうか?
更に行くと巨大な石が取り囲んだ石室のような場所に行き着きます。白幽子巌居蹟という案内板と共に、古い石碑が建っています。北白川愛郷会による案内板の文章を転載しておきましょう。

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ここは白川の隠士松風窟白幽子が巌居した跡である。白幽子の名は慈俊、石川丈山の弟子となり、兄の克と共に丈山に使え丈山の死に水を取り、晩年ここに隠棲した。またここは白幽子が内観の法を白隠に伝授した所謂「夜船閑話」発祥の地でもある。
「夜船閑話」は、後に臨済禅中興の祖と尊崇される白隠禅師が白幽子によって肺病を治癒した体験の名著である。この著書で白幽子の名と内観の秘法とは日本中に広まった。
白隠は二十六才ごろ打ち続く侵食を忘れる猛修行で心身の調和が破れ、肺金焦枯の病を患った。今の肺病である。旅で美濃に在った白隠は人口から、京都比叡山麓白川に白幽子と名乗る一仙人があって稀代の医方により肺金を救うと聞き、直ちに白川に来て山中を尋ねこの巌窟に至った。巌窟の奥深く白髪は長く膝にたれ、柔らかい草のしとねに坐る白幽子に相見を許された。一見して白隠の偉相を観た白幽子は初めて白隠に内観気海丹田の法・・・人身長寿の秘訣を余すことなく伝授した。時に宝永七年(一七一〇年)正月半ばのことである。白隠はこの秘法によって起死回生して明和五年(千七百六十八年)八十四才まで長生した。
明治の南画家富岡鉄斎百錬居士は夙に禅を学び、白幽白隠両祖対面の霊地保存を発起して、明治三十九年十月自ら建碑して、表に「白幽子巌居の跡」と書し、裏にその事績を記した。そしてこの巌居と白幽子が日常飲んだ清泉の不朽を計った。
今も巌居の前に建つ碑がそれである。残念なことに戦後心無き者がこの碑を傷けた。然し禍を転じて福となすことなって、これを機にこの霊跡の保存と顕彰が京都円町の臨済宗妙心寺派法輪寺の前住職伊山和尚によって進められた。
今の臨済禅の発展は白隠禅師を外して語ることは出来ない。その白隠禅師蘇生の大恩人が白幽子である。ひしひしとこの霊跡の重みを感じる。
 
北白川愛郷会
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富岡鉄斎が建てた碑文は京都市歴史資料館のフィールドミュージアム京都で読むことが出来ます。こちらからどうぞ

巨石の脇を通り抜け、西に道をとると、京都造形芸術大学や、江戸時代の文人、石川丈山の墓を経て波切不動に下る道に通じます。麓の詩仙堂は石川丈山が建てた山荘で観光客で大賑わいですが、その主である石川丈山の墓まで足を伸ばす人はほとんどいないようです。国指定の史跡で地形図にもその存在が記載されていますが、建っている案内板は錆びて文字はほとんど読めません。上のフィールドミュージアム京都のデータからも抜け落ちています。墓自体は丈山自身が選んだ石に墓碑銘が丁寧に刻まれていて見事なものです(内容は難しすぎて読めません)。
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京都造形芸術大学は山の斜面という地形と自然を生かしたキャンパスで、森の中に点々と建物が建っています。白川通りに面した正面は大階段となっていてなかなかの威容です。
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最近大学から瓜生山方面に抜ける境界に獣よけの柵が設置されましたが、自由にに開閉できる門があるので出入り可能です。この大学の母体は 学校法人瓜生山学園という名称で、大学祭も大瓜生山祭と名づけるなど瓜生山にある大学という印象を打ち出しています。なお、瓜生山から大学の間には東山三十六峯のひとつとされる茶山がありますが、明確な山頂といえる場所は不明です。茶山の名は麓を走る叡山電車の駅名としても健在です。

さて、白幽子巌居蹟から登るとすぐに清沢の石切り場跡があります。ここは案内板がありますが、こうした石切り場は比叡山から瓜生山の南にある大文字山にかけていたるところにその痕跡が見出されます。そうした埋もれた石切り場については今後も登場してもらうつもりです。
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この付近から道も急になり一登りすれば瓜生山山頂にたどり着きます。 
京都一周トレイルは山頂を越えて尾根を北上し比叡山に向かっています。

様々なルートが選択できる瓜生山は「ウラヤマトレッキング」(辻まことの造語)に最適です。皆様も楽しんでみられてはいかがでしょうか。
お住まいの近くのウラヤマにも見落としていた歴史と自然がつまっているかもしれません。